pagetop
8mater_logo
まちのひとインタビュー はちナビガイド はち街情報 イベント情報 8materとは

8mater

まちのひとインタビュー

インタビュー記事

Vol.5

特別取材

2022年03月15日

お客様一人一人にビールのある最高のストーリーと暮らしを。 株式会社エイトピークスブルーイング 代表取締役 齋藤 由馬さん

長野県と山梨県を跨る八ヶ岳山麓。ここは、ビールの原材料となるホップの名産地であることを知る人はあまり多くはないかもしれない。この地で、地元の人から愛されてやまないクラフトビールがある。八ヶ岳山麓のクラフトビールブランド 8Peaks BREWINGだ。今回は、このブランドを製造販売する株式会社エイトピークスブルーイング代表取締役・齋藤由馬さんにお話を伺った。

【齋藤さんのあゆみ】

元々は長野県上田市出身の齋藤さん。実家は、切り花農家だったが、「どうにもしょうに合わなかった」と語る。実家ではリンドウなど長野県の県花をメインで育てていたのだが、どうしても花の価値を理解できず、共感することが難しかったようだ。

社会人になり上京し、漢方をはじめとした医薬品の製造販売を行う大手企業に入社。そこでは生産技術の開発を担当する。漢方薬の製造に関わる中で、ただ飾るだけだと思っていた花が、実は多くの人々を救っていたことを知る。

2011年東日本大震災を期に、静岡の焼津市へ行くことになった。製薬工場が2拠点あり、そのうちの1拠点が茨城にあったため、甚大な被害が出た補填の影響で、静岡の拠点へ異動したためである。

しかし、1年ほど経過したところで、東北では復興はおろか復旧すらできていない状態であることを仲間たちから伝え聞く。齋藤さんの実家は被災地ではないものの、地元に戻ってこれまでの社会人生活で培った植物の加工技術を活かして、何かできないかと考え出すようになる。明確なプランがあったわけではないが、2012年の5月に上田市へ戻ってきて、家業である切り花農家を継いだ。しかし、やはりどうにも肌に合わない。とはいえ、帰ってきたからには、市場がどうなっているのか考える必要がある。調べた結果、切り花の市場というのは、残り30年持たないことが分かった。日本国内での生産は年々縮小傾向にあったのだ。

【ホップとの出逢い】

何か次の手を打つ必要がある。齋藤さんは探し始めた。そして運命的に出逢ったのが長野県と山梨県で栽培をしていたホップだった。

「この花を栽培することが、花農家としての長寿に繋がっていくのではないか」

そう確信めいたものを感じた齋藤さんは試験栽培を始めた。しかし、近隣のビールメーカーへ売り込む段階となった時、あることに気がつく。

タバコの葉っぱも単体では価値にならない。自分が生産したホップが、ビールにどういった変化があるのかということを具体的に伝えなければいけないのだが、肝心のビールを知らなければ、他のホップと何が違い、その違いがビールにどのような作用をもたらすのか説明ができない。そこから、今度はホップの研究とビールの研究をスタートすることにしたのである。

【ドイツでの大切な学び】

しかし、ビールの歴史を学ぼうとしても、なかなか日本では学びに適した良い本が見つからなかった。そこで、ビールを文化にしているドイツへ行くことに。2013年3月中旬から半月ほどドイツのバイエルン州へ行き、あちこちの駅へと飛び周り、ひたすらに様々なビールを飲み歩いた。バイエルンでの旅において、齋藤さんが印象的だったと語るエピソードがある。

ある時、ふらりと立ち寄った駅近くの店で、カウンターに座っている常連らしいおじさんに「この店で一番おすすめのビールは何か」と尋ねたそうだ。すると、おじさんは冗談まじりに答えてくれた。「くだらないことを言うな、この町のビールに決まってるだろ」と言われた。出されたのは、比較的ドイツでは頻繁に呑まれているヘレスと言う銘柄だった。おじさんと一緒に乾杯して飲むと、これが最高に美味しく、素直に、感動してしまった。その味が忘れられず、0.5リットルのボトルを買って帰った。

ところが、それをホテルで飲んでみたのだが、中身は全く同じなのに、あのおじさんと飲んだときほどの感動ではない。そこで気づいたのが、ビールはおいしいシチュエーションがあってはじめてより美味しくなるのだということだ。

多くの学びを得て、日本に帰国してから、いつしかホップを売るために始めた勉強はビールを造るための勉強に変わった。その中で、日本酒の酒蔵へ行く機会があって、正規の酒の作り方を学んだ。ホップを栽培しつつ、協力者を募りながら、着実にクラフトビールメーカーとしての道を進んでいた頃だった。

【葛藤、そして八ヶ岳との出会い】

時は2017年。大河ドラマで真田丸によって、にわかに盛り上がりを見せていた頃だった。真田の六文銭も、真田丸もすでに商標を取られているので、真田家の赤いイメージカラーを推していくこととなり、赤いビールを作れと言われたのである。その話にどうしても気が乗らなかった。そんな一時的な流行り廃りではない。地元の人が地元のビールを勧める文化があるという環境こそが尊い。遠いドイツに行って学んだ最高の教訓が頭を過ぎった。

気が進まない中、最も親しくお世話になっていた社長が体調不良になり、代替わりを契機として、赤いビールを作る話は凍結になった。そこで、齋藤さんは1年ほどトンネルに迷いこんでしまう。そのトンネルから抜け出す契機を作ってくれたのが、酒蔵で作り手として親交があった日本酒酒蔵の先輩経営者宮沢さん。その方からこっちにきなよと言われ、冗談まじりに話していたが、内心悪くないなと思った。

翌日、宮沢さんの案内で、諏訪蔵と富士見蔵へ行く途上、エコーラインから臨む長野県と山梨にまたがる八ヶ岳のふもとを見て、ここならホップの栽培に向いていると感じた。決意を固め、切り花農家は父親へ託した。齋藤さんは富士見町へ移住し、クラフトビールメーカーの作り手となる。齋藤さんが生み出したビールは、地元の皆様に愛されるビールとなり、このコロナ禍においても増収増益を果たすこととなるのである。

【八ヶ岳で、美味しいビールのある暮らしを】

これからの展望について齋藤さんに伺った。生き残っていくことは勿論だが、「八ヶ岳でおいしいお酒のある暮らしを提供していきたい」と語る。

わずか1年前に発生したコロナウイルスは私たちの暮らしをがらりと変えてしまった。しかし、齋藤さんの思いは変わらない。地域に根ざした八ヶ岳のビールが、八ヶ岳で愛され続ける暮らしを提案する。かつて遠い異国で出逢った、あの感動を、齋藤さんはビールを通じて私たちに届けてくれる。

story-icon01

投稿日時:2022年03月15日 / 最終更新日時:2022年03月18日

story-icon02

OTHERS

この記事をテーマにした作品

一覧ページに戻る